教えのやさしい解説

大白法 663号
 
如意宝珠(にょいほうじゅ)
 如意宝珠とは
 「如意宝珠」とは、意のごとくあらゆる宝を降らせることができる珠(たま)のことで、如意宝、如意珠、また宝石の総称を意味する梵語(ぼんご)のManiを書写した「摩尼(末尼)」とも称されています。
 その形状は『摩訶止観(まかしかん)』に、
 「如意珠の如きは、天上の勝宝なり。形(かたち)は芥粟(けぞく)の如し。大なる功能有り。浄妙の五欲、七宝の琳琅(りんろう)、内に蓄(たくわ)えたるに非ず、外より入るに非ず、前後を謀(はか)らず、多少を択(えら)ばず、麁妙(そみょう)を作さず。意に称(かな)い豊倹なり。降雨すること穣穣(じょうじょう)たり。添えず尽きず」(摩詞止観弘決会 本 中 三二三n)
と、形状は「芥粟の如し」とありますから、一〜二ミリメートルほどの非常に徴細な球形と言えます。
 その如意珠は、小さな一粒の中に無量の万宝が蓄えられているわけでもなく、異次元の穴のようなものでもない。また如意珠より出された万宝の量には増減はなく、あるいは万宝は幻影のごときものでもない。所持者の願いに応じて、宝や衣服、飲食を好きな分量だけ出すことができ、病気や苦悩を癒(いや)し、悪を除去し、濁(にご)った水を清らかにし、災禍(さいか)を防ぐ効能があるという、この上ない宝の珠です。
 日蓮大聖人は、
 「如意宝珠と申すは釈迦仏の御舎利(おんしゃり)なり」(御書 六二〇n)
と、釈尊の舎利(お骨)とも一往、示されています。
 釈尊の遺骨を弟子檀那が取り分けて安置し、これに信行礼拝すれば、功徳は大きいとされるところから、釈尊の舎利をもって意のごとく所願を成就する珠、と仰せられているのです。
 この釈尊の舎利は「生身(しょうしん)の舎利」といいますが、しかし釈尊の命は、釈尊が悟られた法である法華経にこそあるのです。これを「法身(ほっしん)の舎利」といいます。
 故に、即身成仏という無上の大果報を「不求自得(ふぐじとく)」と現ずる法華経こそ「如意宝珠」なのです。
 この如意宝珠は、仏の随自意の一教より八万四千と言われる無量の法門が出生する意に譬えられ、また凡夫の一念に三千の諸法が具足(ぐそく)することを譬えています。前出の『摩詞止観』には続いて、
 「蓋(けだ)し是れ色法、尚能(よ)く此くの如し。況んや心神の霊妙なる。寧(むし)ろ一切法を具せざらんや」(摩詞止観弘決会本 中 三二三n)
と、如意宝珠ですらこのような不思議な姿がある。どうして凡夫の心に一切の存在が具足しているということを否定できようかと示されています。

 宝珠の真義
 しかし、その釈尊の最高の悟りである法華経も、末法の本未有善(ほんみうぜん)の荒凡夫にとっては最高の良薬、すなわち如意宝珠とはならないのです。
 大聖人は、
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(御書 六八五n)
と、末法の御本仏として一切衆生救済のためにその御内証を一幅の大漫荼羅と御図顕あそばされました。
 そして、
 「一念三千を識(し)らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹(つつ)み、末代幼稚の頸(くび)に懸(か)けさしめたまふ」(同 六六二n)
と、滅後末法の私たちの即身成仏の大法として、人法一箇(にんぽういっか)の御当体たる本門戒壇の大御本尊を遺(のこ)されたのです。
 この本門戒壇の大御本尊こそが、仏法の一切の能生(のうしょう)の根源、如意宝珠の真義に適(かな)う無上の宝なのです。
 故に、末法の私たちが、この如意宝珠たる大御本尊に対し奉って題目を唱えるとき、 
 「祈りとして叶わざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕われざる無きなり」(御書文段 一八九n)
とのように、無量の功徳を頂戴できるのです。

 宝珠を持つ用心
 総本山第二十六世日寛(にちかん)上人は『法華題目抄文段(もんだん)』に、
 「信者、当(まさ)に知るべし、既に妙法の宝珠を持つ故に内外に就いて用心あり。一には謂わく、焼亡(しょうぼう)。二には謂わく、盗賊なり。所謂焼亡とは、即ち是れ不信謗法の火、妙法の無量の功徳を焼失する故なり。道乗が瞋恚(しんに)の火すら尚読誦の功徳を焼く。況んや諸法の炎をや。所謂盗賊とは、即ち走れ悪鬼・魔王の障礙(しょうげ)なり。例せば隠士・烈士の如し云云」(同 六七九n)
と、この如意宝珠に対する信心を持つ上で、焼亡と盗賊の二つに用心すべきことを注意されています。
 すなわち、焼亡とは謗法の火、盗賊とは悪鬼・魔王の障礙であると明かされます。不信謗法は、主に自らの三毒より起こりますが、盗賊とは『兄弟抄』に、
 「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず」 (御書 一九八六n)
とあるように、三障四魔(煩悩障・業障・報障、煩悩魔・陰魔・死魔・天子魔)の中でも第六天の魔王による天子魔の障礙こそ盗賊の意に適うと思われます。
 一度、大聖人の仏法に巡り値いながら、第六天の魔王たる池田大作に誑(たぶら)かされ、不信の火種を点されて、自らの三毒を盛んにし、終(つ)いには戒壇の大御本尊を否定して、この無上の宝珠を失ってしまった、創価学会員をはじめとする数多(あまた)の人々がいます。
 私たちは、これらの人々に対し、さらなる折伏に邁進してまいろうではありませんか。